混沌の森
何か風景のキーになるものがあるという訳でもないのだが、僕はその場所で足を止めた。風景が、ここを撮りなさいと囁いているような気がしたのだ。
情報量の多い屋久島の混沌とした森にレンズを向けると、どこでフレーミングを切るのかファインダーを覗きながら本当に悩ましい。わずかアングルを変えただけでも、その見え方はガラリと変わってしまうからだ。
またこうした撮影では三脚が必須だが、そもそもこうした撮影現場は足場が悪くて三脚を立てる場所が限られてしまうのが常だ。手持ちでようやく探したアングルの場所に、正確に三脚をセットしてカメラを固定するということが、そもそも至難の技だったりする。
しかし何とか足場を見つけてカメラをセットする。レリーズしてEVFの中に浮き上がってきたプレビューを見て心が沸き立った。
だが同時にもしかしたら、いまは眼の前の風景そのものにただ写真を撮らされているだけなのかもしれないと自らの行為を訝りもした。
しかし撮影とは、現場でカメラを構えてシャッターを押す行為だけを指すのでは無いと思う。いまこの瞬間この場所にカメラを構えることができる環境を構築した、その背景も含めた総合的な行為を指すのだと思う。そういう意味でのリスクを僕はとってきた。いいじゃないか、そうして目の前に現れた風景に写真を撮らされるなら、それは僕が撮った写真と言ってもいいだろうと自分を納得させる。
撮られた写真というのは、つまりはその人がどう生きたかという記録でもあると思う。