屋久島ヒトメクリ.(12号)
わたしの大好きな屋久島の風景
第12回:ドームハウス
ゲスト:久米理生(くめまさなり)さん 1949年愛知県知多郡東浦町生まれ。海辺の生活を夢見て2005年に屋久島へ移住。自らの手でドームハウスを建て、その夢を実現させた。
丸い形の屋久島を時計に見立てておよそ7時の位置、湯泊地区の城下を海辺まで下ってゆくと、鬱蒼とした森が海の間際までせり出している。その森の中にちょっと変わった形の赤い屋根が見えた。久米さんが建てたドームハウスだ。「なぜこの場所を選んだのか」の問いに久米さんは「海を身近に感じて暮らしたいから。そう、距離感というか、見るだけではなく海を感じていたかったから」と答えた。
愛知県知多半島の付け根にあたる東浦町は内陸に少し奥まっている。そこで生まれた久米さんは海に馴染みなく育った。そんな久米さんが海に目覚めたのは外資系の商社に勤め、富山県に暮らした時だった。販売代理人としてたった一人でその地に赴き、顧客を開拓して出張所を作り、それを営業所へと拡大してゆく。必死で働く傍ら、能登半島に出合い、シュノーケルを始め、富山に家を構えて釣りに熱中する。「海が好き」になり、「ここの暮らしが気に入っていた」。そんなとき、会社から大阪への転勤辞令が下った。
家族を引き連れて大阪へ移った久米さんは、都会の真ん中で働きながら、もう一度「きれいな海の脇で暮らしたい」と願うようになる。そして紀伊半島一円、四国近辺で土地探しを始めた。しかし条件に叶う物件に出合えない。そんなとき、20年前の海外出張で飛行機の窓から見た屋久島のことを思い出す。「とにかく行ってみよう」と島へ渡った久米さんは、観光もせず土地を見て回る。二度目の来島時にそこへ来ると「鬱蒼とした森の先に海がわっと見えた」。「ここだよ、お父さん」と一緒にいた妻の正子さんも同意し、久米家の移住物語が動き出した。
会社を退職した久米さんは木工の技術を習得するため職業訓練校に入った。海辺に暮らすだけでは「飽きる」と考え、自らの手でその場所に家を建てることを決めたのだ。準備を整えて2005年6月に移住。2年で建てる予定の家は、形になるまで6年の時を要した。ドームハウスを建てると言ったら口々に「屋根の雨漏り」を心配された。だから「屋根工事に1年かかった。そこだけは必要以上に丁寧にやった。時間はかかったが、もしこれを途中で投げ出したら巨大なゴミになってしまう。ドームハウスの建築には命を懸けた」と久米さんはその時期を振り返る。
一つのビジョンを形にした男はいま休息をとっている。しかし「そろそろ居心地が悪くなってきた。今度は、自分のためでなく、誰かに喜んで貰える実用品を作ってみたい」と次のビジョンを語った。「ただしもう重たいものは嫌だ」と海の見えるデッキの上で微笑みながらそう付け加えた。