屋久島ヒトメクリ. (10号)
わたしの大好きな屋久島の風景。
第10回:椨川のストレート
ゲスト:堀 潤一 さん 1966年富山県高岡市生まれ。1997年に屋久島へ移住。学童保育所すぎっこっくらぶ主宰。
宮之浦地区から時計回りに県道を走って10分ほど、右手に楠川温泉の入り口を見て、ゆるいS字カーブを上り切ったところから道路が一直線に続く。堀さんはここを椨川のストレートと呼んでいる。「この場所を初めてバイクで走ったとき、屋久島に住むことを決めたのです」と。
堀さんは富山県高岡市の生まれ。大学で大阪へ出たのち、地元へ戻ってプロダクション会社へ就職。カメラマンとして、報道番組などの制作に係った。あるとき取材で訪れた保育園で子供たちの笑顔に強く惹きつけられる。より深く子供のことを学ぼうと、通信教育を使って保育士の資格を取得。その後フリーとなり、仕事が暇な時期に長期の休暇をとって、北海道から西表までバイクで走り回った。そんなとき鹿児島港で屋久島の存在に気がつき、「ここまできたついで」という軽い気持ちで屋久島へ上陸した。
宮之浦からバイクをスタートさせ、椨川のストレートに差し掛かったとき、「あ!オレここに住むわ!」というインスピレーションが降りてきた。「日本全国あちこち見たけど、そういうインスピレーションは初めてだった」。滞在期間中には島の保育園へ遊びにゆき子供達と触れ合った。そこには「物分りの良くない本物の子供」がいた。地元に戻った堀さんはその保育園へ電話をかける。「島に住みたいので、働かせてほしい」。するとあっさり「いいですよ」という返事。「あとは自分が決断するだけ」となり、4ヶ月後には屋久島へ移住していた。
保育園で働くなか、母親たちから小学生の子供を預かる施設の希望を聞くことがあった。それならばと保育園を退職した後、自宅の部屋を開放して学童保育所を始めた。しかし最初の2年間、児童は3人だけ。終には手持ち資金が尽き、ギリギリの生活に追い込まれる。しかし保育所の運営はやめなかった。保育園時代の人脈が助けになり、3年目には児童が10人まで増える。4年目には行政から補助が出るようになって現在の楠川に施設を構えた。児童の数も増えてスタッフも抱えるようになり、「センスオブワンダーを育てたい」という思いから夢中で子供たちと向き合う日々を過ごしてきたが、気がつくと来年“すぎっこくらぶ”は10周年を迎える。10年の区切りを目の前に、堀さんは今後の展開についてあれこれ思いを巡らせている。
「いままでは比較的内向きの活動が多かったが、お祭りへの参加や施設慰問など、地域との係りをいままで以上に増やしてゆきたい。また、せっかく根付いた学童保育所を続けてゆくためにも、NPO化など組織作りについても考えてゆきたい」と。そんな風に近未来の展望を語る堀さんの目は、椨川のストレートのように真っ直ぐ子供たちに向かっているのだと感じた。