屋久島ヒトメクリ.(8号)
わたしの大好きな屋久島の風景
第8回:志戸子のガンギ
ゲスト:中馬(ちゅうまん)慎一郎 さん 1972年屋久島志戸子生まれ。30歳のときに屋久島へUターン。志戸子に地元の人が集まる情報発信基地としての拠点を構想中。
ガンギとは、志戸子の言葉で堤防を指す。そこに立ってみると、山に囲まれた小さな集落全体が、一望のもとに見渡せる。振り返れば遥か水平線の向こうに九州本土や三島列島の影も見える。そで彼は「ここが僕の原点なのです」と静かに、でも確かな声で言った。
中馬さんは屋久島の生まれ。高校から鹿児島へ出て大学まで市内で過ごす。そのままそこで酒造会社へ就職した後、大阪へ配属された。営業社員はたった二人。そこから広く西日本、中四国、中部、北陸と、文字どおり飛び回る生活が始まる。当時の経験はガイドとして活躍する今に生きる。「西日本ならどこでも風景が出てくるのは、話のキッカケをつかむのに役立っています」と。
社会人になった中馬さんは以前から興味のあったダイビングをはじめる。24歳から3年ほどで資格をとり、和歌山や沖縄の海へ通った。屋久島へ戻ると志戸子の海に潜り、そこに「豊かな自然がそのまま保存されている」のを見るたび、いずれ屋久島でガイドをやりたいと考えるようになる。また長男である彼はその意味でもいつか屋久島へ戻ることを意識していた。でも「それを直接の理由にするのは何か違う」と感じていた。そんなとき、北海道へ行って大雪山に出合う。その雄大な風景に感動し「屋久島には海と山の両方に、大雪で見た感動がある」と考えるようになり、「帰ってそれをしっかり見てゆこう」と、30歳を機にUターンを決めた。
島に戻った中馬さんは志戸子地区の岳参りが50年も途絶えていることを知る。まずは足許からと、薮を漕いで志戸子岳に行った。しかし祠が無い。次に隣の一湊岳(旧営林岳)に祠が二つあることを突き止め、志戸子側からそこに登った。頂上の祠を写真に撮って地区の古老に見せ、記憶と一致することを確かめた。そのようにして自らのルーツを復元するように山を歩き、自分を鍛えつつ山歩きにも精通してゆくなかで、海だけでなく、山のガイドとしても活躍している。そして10年経過した今年、40歳を目前にもう一度自分の立ち位置を確認しようと仕切り直しを決めた。
「屋久島は、単純に海と山が両方あるのでなく、もっと奥深いところでつながっている。しかしいまはその理由がもやもやしていて、自分の中で確かな形がつくれていない。ガイドの仕事はそれを探すために、自分が勉強したくてやっているようなもの。岳参りも形だけでなく、精神的なバックボーンが大事なので、それを教えられる自分になりたい。そのためにも後継者を育てる場が必要。だから志戸子に地区の人が集える情報発信基地のような拠点を作りたい」と。中馬さんは静かに語るが、その言葉に込めた想いはとても強く、そして確かだった。
注)この取材のあと、広島市の太田川で雁木に出合い、ガンギは雁木だったと知った。志戸子地区では堤防そのものをガンギと呼んでおり、どこかから持ち込まれたその言葉が、音だけ残し、意味を転じて方言という形で伝えられたものと思う。