My first Yakushima 人生を変えた島
写真・文=大沢成二
僕と屋久島との出逢いは2003年の宮之浦登山だった、韓国、高千穂、開聞と3つ踏んだあと、その延長で屋久島へ渡った。しかしその出逢いは、その後の僕の人生を大きく変えることになった。
どうしてそのとき、それほどまで強くそう思ったのか、いま考えると少し不思議に思うのだが、そのとき僕は、なんとしても屋久島を一冊の写真集にまとめたいと思い、それを成し遂げるまでは屋久島へ撮影に通うことを自分のなかで決めてしまった。そしてそれから僕の人生はガラリと変わり、すべてが屋久島の撮影中心に回り始めた。屋久島は通い詰めるほどに新しい表情を見せ、ますます僕を魅了してゆく。屋久島で出逢う人に「長野県から撮影に来ている」と話すと「どうしてわざわざ、長野県もいいところだよね」と返された。確かに長野県にも素晴らしい自然がある。しかし僕の目には屋久島以外見えていなかった。それは旅先での高揚感がもたらす勘違いだったのかもしれない。それでも屋久島を撮ることがそのとき僕の人生のすべてだった。
そんな風に撮影を続けていた2006年の暮れ、日本列島南限の雪を撮ろうと永田岳に向かった僕は無理をし、そこで小さな怪我を負ってしまった。写真集を作るための方法として、通いの撮影に限界を感じ始めていた頃だ。休息をとろうと宮之浦の民宿「晴耕雨読」に部屋をとり、そこで僕は長井さん夫婦と出逢う。僕はおそるおそるそれまで撮りためた屋久島の写真を長井さんに見せた。すると長井さんは屋久島在住の写真家、山下大明さんに僕を引き合わせてくれた。山下さんは僕の写真をひととおり見た後「動物が特徴的だ」と言った。そして「樹よ。―屋久島の豊かないのち」の中の何枚かの写真を示して、その1カットが何年もかけて撮影されていることを教えてくれた。そして数日後、僕は山下邸にお邪魔する。その日は長井さんたちのバンド、ビッグ・ストーンの練習日だった。山下邸は港が見下ろせる高台の上にポツンと建っている。周囲に遠慮なく音を出せる環境で、僕より10歳以上歳の離れたその人たちは、誰はばかることなく、気持ち良さそうに楽器をかき鳴らし、あらん限りの大声で歌っていた。それを見た僕は「ズルイ!」と思った。
人生にはこのような楽しみ方があるのだと、そのとき僕は初めて知った。それまでの僕の人生はどちらかと言えばもっと窮屈だった。周囲に配慮し、音量を絞って生きてきたのだ。漠然とではあるが、僕が屋久島への移住を意識し始めたのはあの瞬間だったと思う。「屋久島へ行けばそれが手に入るかもしれない」と思ったのだ。
帰りのフェリーの中で僕は「屋久島へ移住する」ということを真剣に考えはじめた。そして鹿児島から長野まで、怪我した左胸の痛みを我慢しながら高速道路をひた走りながら「屋久島移住」は自分のなかで決意に変わって行った。それを具体的な言葉として誰かに伝えたのがその年の暮れ。そして翌年5月に僕は妻を伴って屋久島へ移住した。以来4年半、春には目標としてきた写真集「屋久島 (青菁社フォトグラフィックシリーズ)」を上梓した。
こうして屋久島との出逢いから今日までを振り返ってみると、ときどき自分でも「なぜあのときそれほどまで強くそう思ったのか」分からなくなることがある。「何かの勘違いだったのか」と。ただ一つはっきりしていることがある。それは屋久島を訪れて、僕の人生は大きく変わったということだ。
初出 屋久島 (ワンゲルガイドブックス)P180-181 2012年2月25日発行
僕の移住の背中を押したビッグストーンの演奏がYoutubeにありました。赤いTシャツの男性が素泊まり民宿晴耕雨読のオーナー長井三郎さん、ベースを弾いているのが写真家の山下大明さんです。