屋久島ヒトメクリ.(4号)
わたしの大好きな屋久島の風景
第4回:宮之浦城ヶ平城跡
ゲスト:中島正治さん1944年、屋久島宮之浦生まれ。18歳で上京したのち様々な経験を経て37歳のときに屋久島へUターン。自然遺産の島で自然食品の普及を目標に「自然食品の店みみ商会」を営む。
城ヶ平城は、鉈折岳の丘陵に禰寝(ねじめ)氏が築いた山城だ。その麓には、宮之浦の町が箱庭のように広がり、水平線の彼方には、べったりと寝そべったように平らな種子島が見える。中島正治さんは友人が来島すると、まずここを案内するという。そして、この史跡には「意外な歴史的事実が隠されている」というのだが、その詳細については「あなたが調べてみてください」と言って多くを語ろうとしなかった。そこで僕は乏しい資料を探して史実を追ってみた。
室町時代後期の天文十二(1543)年、種子島十三代恵時(しげとき)の奢侈を諌めた弟の時述(ときつぐ)を恵時が疎んじたため、時述は禰寝清年(ねじめきよとし)に通じて兄を攻撃した。恵時は屋久島に逃れ、嫡男の時堯(ときたか)は禰寝軍に敗れ自害を覚悟したが、清年は恵時の悪政を正すことが目的とし、時堯には屋久三郡を差し出させ、種子島を睨むようにして城ヶ平に城を築いた。しかし、翌年には種子島勢が築城途中の城ヶ平城を攻め、屋久島から禰寝氏を追い出した。この戦には、直前の天文十一(1542)年に種子島へ伝来した鉄砲が初めて実戦投入されたという言い伝えがある。また種子島恵時・時堯親子は二千両もの大金を使い、ポルトガル人から鉄砲を入手している。鉄砲の価値を認めなかった時述が、それを奢侈として諌め、騒動の発端になった可能性もある。いずれにせよ、城ヶ平城跡は、種子島への鉄砲伝来という歴史的大事件の背景で起こった騒動の舞台なのである。
正治さんの取材は万事この調子で進んだ。自然食品についても、自然食品の店を始めるようになったいきさつについても、正治さんはそれを詳しく語ろうとしなかった。そこに東京時代での体験が大きく影響していることは、話の端々からなんとなく伺い知れたのだが、その核心に踏み込むことが僕にはできなかった。しかし何度か取材した帰りに「食べてみてほしい」と、自らが畑で育てた野菜を貰った。びっくりするように大きく育ったキュウリを洗って丸のままかじった僕はその鮮烈な味に驚いた。普段食べているキュウリに感じていたエグミが、それにはまったく無かったのだ。これぞ究極の自然食品なのだ。百の言葉より一の体験。僕はこの取材を通じて自然食品に対しても注目するようになった。
「高山名峰も良いが、近場の里山にも意外な魅力がある」とは正治さんの弁。普段省みられることの少ない身近なもの言わぬ史跡を調べてみることで大きな発見があるように、足許を見返すことで新たな発見があるのだということを、僕は正治さんの取材を通じて学んだ。