屋久島ヒトメクリ.(3号)
わたしの大好きな屋久島の風景
第3回:民宿くちのえらぶ
ゲスト:貴舩裕子さん 1949年横浜生まれ。24歳の時に口永良部島へ移住。三人の子供と10人の孫に恵まれ、いま島にいる児童の約半数が貴舩家の孫。「島の人口をさらに増やすことが目標」と微笑む。
屋久島の西およそ40キロ、東シナ海に浮かぶひょうたん型の火山島が口永良部島だ。今回はそこにある「民宿くちのえらぶ」の女将、貴舩裕子さんをゲストに迎え、宿のテラスから見える風景を紹介します。
裕子さんは横浜で生まれ、しつけの厳しい母親との張り詰めた緊張感の中で少女期を過ごした。そんな彼女が「唯一息継ぎできる場所」が、福島の田舎にある親戚の家だった。その土地の大らかな空気は裕子さんを優しく包み込み、気持ちを自由にしてくれた。彼女の田舎暮らしへのあこがれは、この体験がもとになっている。
東京で美大生となった裕子さんは、同級生だった庄二さんの下宿に「おしかけ女房」として転がり込み、そのまま学生結婚。そこで二人の子供をもうけ、三人目の子供を身ごもったとき夫に訴えた。「わたしは都会暮らしにくたびれてしまった。歩いて暮らせる田舎で子育てしたい」と。妻の希望を叶えようと夫は移住先を探し、終には屋久島へわたる。しかしそこもまた、妻の望む「歩いて暮らせる」場所ではなかった。夫はあきらめずにその先へ向かう。そして裕子さんのあこがれる「何十年も前の日本」が残る口永良部島を見つけ移住した。しかし10年ほど暮らすうち、濃密な人間関係につかれた一家はいったん島を出る。そして兵庫県で8年過ごしながら「濃密な人間関係の中で人が協力しあう大切さ」を再確認して島へ戻った。夫は中学校や工場の廃材を集め、自らの腕で民宿を建て始め、夫がただそれだけに打ち込む間、裕子さんは子供たちと一緒に貴舩家の家計を支えた。7年後、その巨大な木造の民宿は完成した。
建物は、背の高い切妻屋根が東西に長く延びる平屋造りで、南面の中央に大きく開いた玄関から中に入ると、そこはただ広い板張りのダイニングとなり、その先が東シナ海に面したテラスとなっている。天気の良い日には薩摩硫黄島が目の前にポッカリと浮かび、山から吹き降ろす風が爽やかに海へと抜けてゆく。リクライニングチェアに深く身を沈め、ただ目の前の海を眺め「感じたり、想ったりしながら日々哲学している」と、モノや情報に溢れ、時間に追い立てられるようにして暮らすのが当たり前の現代日本において、あらゆるものが何も無く、時間の感覚すら自らの意思で自由に引き伸ばすことのできるこの島の暮らしが、「たまらなく幸福」だと感じられてくる。この充足した空間こそ、時代という振り子のもう一方の先端なのだと直感した。
テラスで海を見つめながら裕子さんは言う。「あきらめずに探し続ける限り、生きる場所というのは必ずどこかに見つかるものなの」と。彼女の人生が、具体的にそれを物語っていた。
ちなみに、山歩みち(別冊)屋久島でモデルをしてくれた山口双葉ちゃんも貴船裕子さんのお孫さんです。