屋久島ヒトメクリ.(2号)
わたしの大好きな屋久島の風景
第2回 白浜
ゲスト:長井愛子さん。1951年屋久島楠川出身。50歳を過ぎてマラソンを始め、これまでにハーフを含む4つの大会で完走。次は「東京マラソンの完走」を目標に掲げる。
鹿児島本土と屋久島を結ぶ定期航路のフェリーが接岸する宮之浦区。その中央を貫くように流れる宮之浦川を4キロメートルほど遡ったあたりを「白浜」と呼んでいる。今回は「素泊まり民宿晴耕雨読」の女将、長井愛子さんをゲストに迎え、その「白浜」を紹介します。
愛子さんは屋久島の楠川で生まれたあとまもなく、一家で長崎県の伊王島へ移り住んだ。炭鉱特需に沸いたそこの暮らしは経済的にも豊かで、小学校には千人を超える生徒が通うなど、島は活況を呈していた。愛子さんが12歳の時に一家は屋久島へ帰る。「雨が多くて陰気くさく、どうも好きになれなかった」。多感な思春期を迎えた少女にとって、賑わう伊王島から屋久島へ帰ることは、一昔前にタイムスリップしたような体験だった。
そんな愛子さんが、「屋久島ではじめて好きになった場所」と語るのが白浜だ。宮浦中の学友林へ下草刈りにでかけた時、山の上から文字どおり白く輝く砂州が見えた。「あれは何」との問いに、友達が「白浜」と教えてくれた。以来、白浜は愛子さんのお気に入りになった。春は岸辺を彩る山桜の下でお花見を。暑い夏はそのまま川へ飛び込み、日が暮れるとエビをとり、天を仰いで降るような星を見た。
高校から東京へ出た愛子さんは同郷の三郎さんと学生結婚して屋久島へ戻り、宮之浦に居を構えて二人の子どもを育てた。子どもたちが大きくなると家族で白浜へキャンプにでかけ、その子どもたちが成長し、孫をつれて帰ると、今度は孫と一緒に白浜へ遊びに行った。親子三代、白浜はいつも宮之浦の子どもたちの遊び場としてそこにあり、親たちは安心してそこで子供を遊ばせてきた。
そんな白浜にも「最近少し気にかかる変化がある」という。以前にくらべ「空き缶などのゴミが目立つようになってきた」というのだ。「屋久島の人は身近にキレイな川のあることを誇りに思って朝晩それをみつめている」から、そうした環境の変化に敏感だ。そして「白浜のような場所が荒れると危ない」と言う。
白浜と宮之浦の例にもれず、屋久島の各集落はいずれも川のほとりに栄え、人々は川とかかわりながら日々の暮らしを営んできた。屋久島の川はそんな島人たちに、まるで「炭鉱のカナリア」のように環境の変化をいち早く教えている。屋久島に暮すとは、川を見つめ、川とともに生きてゆくことなのかもしれない。