小花之江河
翌朝目覚めた僕は直ぐに昨日打ち付けた腰の痛みを確認した。
少々痛みは残るものの、一晩寝て随分状態がいい。体力も回復して来ている。三泊四日の山行最終日、今日はもうほとんど下るだけだ。僕は早々に食事を済ませ、荷物をまとめると、石塚小屋を後にした。時間は午前6時半だった。
雨が結構激しく降っていた。しかし不思議なもので、一度通った道というものは既に勝手が分かっているのでそれほど苦にならない。昨日はあんなに不安を感じた山道を、途中で撮影をやりながらだが、1時間半ほどで登り返して花之江河まで出た。更にそこからもう一山超え小花之江河へ向かう。僕はそこまでたどり着くとザックを下ろしてカメラを構えた。標高約1600m付近にあるという日本最南端の高層湿原。ここでも白骨樹に着生したシャクナゲが優雅に花芽をつけている。僕は木道に三脚を立て、PLフィルタを回転させながら水面の反射を調整し、風で流れてくるガスが丁度良い濃さになるのを根気良く待ちながら何度もシャッターを切った。
撮影日:2005年6月8日
撮影データ:CanonEOS20D+EF-S10-22mmF3.5-4.5USM(焦点距離15mm)
ISO100 F8.0 1/20sec 露出補正-0.3 PLフィルター・三脚使用
そんな風にゆっくりと1時間ほど撮影をやっていると、いつしか淀川登山口を出発した登山者が一人やって来て、近くに腰を下ろした。僕は撮影をやめ、機材を仕舞いながらしばらくその人と話をした。年恰好はだいたい40代前半という感じの細身で長身の男性。屋久島に暮らして5年になるという。普段は登山をしないが、今年はシャクナゲがアタリ年だということを聞いて、ここまで登ってきたのだという。
「屋久島に暮らして5年ということは、元々地元の人では無いのですね」と僕は質問した。男の人は「そうです」と答えたので、僕は「なぜ屋久島へ?」と質問を続けた。彼は「仕事の関係です」と答えた。「仕事の関係....」。そのとき僕は漠然と、屋久島へ住むにはどうしたらいいのか?と考えていたので、どんな仕事の関係でその人が屋久島へ住むようになったのか?凄く興味があった。そこで僕は「失礼ですが、どんなお仕事なのですか?」と質問を続けた。すると彼は、僕の想像が届かない、遥か外側から答えを返してきた。
「私は坊主をやっています」と。僕はその答えを聞いて物凄く不思議な気持ちになった。「お坊さんが仕事の関係で屋久島へ移住してきた。しかも五年前に。」僕はそのように頭の中で文章をつくってみたのだが、それはどうしても自分の中で現実感を持ち得なかった。そして「世の中には僕の想像が及びもつかない人生というものがあるのだ」と、改めて思った。